2022年7月24日日曜日

【短編小説】「あおによしの風」④ (おわり)

 ちらほらと舞う小雪が年の瀬の訪れを告げる頃となった。

 村はずれの小川の畔に1人の男が


座り込んで何かを見つめているが、その目はうつろで焦点が定まらない。その先には、河原に残された大きなアカテガニの骸があった。

 ここ笠縫の地にも、藤原広嗣の乱が鎮圧されたと風の便りが届いた。

 北九州の地で、広嗣軍と朝廷軍の一進一退の激しい攻防が繰り広げられたが、広嗣は降伏を促す勅命にも動じることはなかった。板櫃川を挟んで両軍が対立していた最中に再度、勅使が広嗣を訪れた。勅使を目の前にしても威勢を張る広嗣であったが、ある一通の文を渡され、それに目を通し終えたとたんに広嗣は目に涙を浮かべ、ヘナヘナと椅子に身を沈めた。その後、勅使に対する態度が急変し、朝廷軍への懐柔策を提案した。

 しかし、それを目の当たりにした側近や重臣たちの信用を失い。その後、急速に配下の離反が相次いだ。ついに反乱軍は総崩れとなり、広嗣は五島へ逃亡したが、失敗。大将軍の大野東人に捕らえられ、唐津の地で斬首された。享年28歳。今を盛りの壮年期を迎えようとする頃、彼の野望は都を遠く離れた九州の地で潰えたのである。

 ・・・・

 「アシホコはどうしているのか?みんな元気にしているのかな。」

 唐突に解散、解雇されたあの事件からもう二月が経とうとしている。その後の皆の消息は分からない。親友だったアシホコは河内へ出稼ぎに行ったとの噂を耳にしたが、定かでは無い。

 「さて、もう帰らないとな。」

 立ち上がり、後ろを振り返った瞬間、サムシはギョッとした。4・5歩ほども離れていない場所に、みすぼらしい格好をした一人の僧が座っていた。齢70前後の頃か?おそらく旅の僧だろう。長い杖と笠を持ち、肩には布袋を掛けている。

 「いや、すまん。驚かせて悪かった。そなたがあまりにもしょんぼりしているもので、心配して静かに見ておったのじゃ。」

 痩せこけてはいるが、眼光鋭く、長身に逞しい筋骨を持つ手足がところどころ衣服から覗いて見える。とても普通の老人には見えない。おそらく、どこぞの武人が私度僧(非公認の出家僧)にでもなったのだろう。

 「せっかくじゃから。少し拙僧と話でもせんか?」

 サムシは、お坊さんの説法は道辻や集落の角で聞いたことがあるが、面と向かって対面するのは初めてである。弟たちも待っているので、少し躊躇ったが、またとない好機と思い、少しばかり相談に乗ってもらおうと決めた。

 「お坊さん、私は、この近くの集落に住むサムシという者です。今は、畑仕事を手伝いながらなんとかその日暮らしを送っています。」

 サムシは、一礼すると旅僧の横に座り、話を続けた。

 「つい先月、母を病で亡くし、弟二人を育てています。村の人たちは良くしてくれるのですが、3年ほど前に流行り病が流行して随分多くの人が亡くなりました。また、何時流行するやもしれず、人同士の付き合いや仕事も減って皆が苦しんでいます。」

 自分でも驚くほど多弁になったと思った。一挙に口から言葉が出てくる。

 「御仏様や観音様がいらっしゃるのであれば、どうして、こんな苦しい嫌なことばかり続くのでしょう?私も皆も、真面目に頑張っているのに。」

 サムシは心優しい性根の青年である。自分の事ばかりではなく人の事も心配している。すでに目には涙が潤んでいた。

 旅僧は、小川を見つめな


がら話を聞いていた。小石を一つ拾うとポイとアカテガニの骸へ投げた。

 「そなたは、先ほどあのカニの亡骸を見ていたじゃろ。どんな気持ちで見ておった?」

 おもむろに問いかけた。

 「何も考えずにぼーっと見ていました・・。いや、昔の仕事仲間はどうしているか考えていました。私は、以前、役所と市場の建設予定地で土木作業をしていました。」

 そういえば、柱穴に落ちたカニを良く拾って川に帰してあげてたな・・。苦しい日々だったが、仲間に囲まれ楽しく懐かしい記憶が蘇った。

 「あのカニも苦しい事があっただろうに、精いっぱい生きて黙って死んで行ったのじゃろうな。」

 そんなのは当たり前だ。カニと人間を比べたら困る。虫や動物にはそんな頭は無い。自然のままに生きて死んで行くだけだ。自分が助けようとしたカニは、ハサミを振りかざして必死に抵抗した。助けてあげているのに、そんなのも分からずに。と、サムシは内心思った。

 「では、あのカニは自分の死期が分かったのかな?人はどうじゃな?」

 まるで、心の内を見透かされているようでサムシは少し身震いした。

 「いえ、死期など誰も分かりません。」

 「おそらく森羅万象の生も死も知っておるのは御仏様だけよのう。そう思わんか?」

 サムシは、ハッとした。確かに、いくら人が頭が良いといっても全てが分かるわけがない。美しい星辰を仰いでどんなに考えても何も分からなかった。仏さまから見たら、人もカニも全ての生けるものは皆同じだ。

 「藤原の広嗣殿の話は聞いているじゃろ?あの方は、少し無骨なところがあったが、聡明なお方で生粋の武人じゃった。朝廷の貴族たちとは少しウマが合わなかったのだろうて。」

 旅僧は話を続ける。

 「大宰府への着任を命ぜられたのは、決して左遷では無く、それだけ任されていたと見方を変えれば良かったのじゃ。その場所や立場で咲かせられる花もあるのじゃ。もし、広嗣殿が短気を起こさず、狭い了見を持たずに力を発揮したならば、九州の王になり、朝廷をもしのぐ力を持てたやも知れぬのにな。」

 まるで、知ったように話をするんですね。とサムシが返すと、(はは!)と苦笑いをした。

 「今、苦しいと思う時は、ひょっとしたら御仏様がお与えなさった一つの道と思えば良い。その道をジッと耐えて歩まば、必ず光明が差す時が来るとひたすら信じる事じゃ。災い転じて福と成すじゃ。」

 そう言えば、柱穴に落ちたカニたちにとって、自分の手のひらは、恐怖以外の何ものにも見えなかっただろう。でもその結果、身を預ければ川へ帰してもらえた。まさに(災い転じて福と成す)だ。

 「たとえ帝や貴族と言えど、庶民にしても御仏から見たら同じ人間なのじゃ。人の魂は、水のようなものでな。例えば、椀に入れた水はどんな形になるかな?」

 「お椀と同じ形になります。」

 「では、その水を壺に移したらどんな形になるかな?」

 「壺と同じ形になります。」

 「その通り。器も色々あるとおり。人の人生や立場はそれぞれじゃ。聖武帝でさえ、今は帝の器に入っていても、いつかは別の器に移されるものじゃ。これは輪廻転生という仏の教えに繋がる。もちろん、そなたもそうじゃぞ。」

 サムシは、この旅僧の説得力か?不思議な魅力か?は分からないが、何かの悟りを得たような気がした。

 「さてと、わしも明日からは忙しくなっての。こんな風に気ままにボロを着てしばらく出歩くことは出来なくなるんじゃ。引き留めてすまなかったの。達者で過ごすんじゃぞ。必ず良い日が来るからの。」

 旅僧は、立ち上がりながら、サムシに別れを告げた。

 サムシは嬉しかった。井戸の底に太陽の光が射すように心が明るく温かくなるのを感じた。

 旅僧の後姿を見送りながら、最後に名前を教えて欲しいとお願いしてみた。「行基(ぎょうき)」とだけ答えた。サムシは、どこかで聞いたような名前だと思ったがどうしても思い出せなかった。

 ・・・・・

 それから20年ほどの月日が流れた。セミの鳴き声も賑やかになった笠縫の市場を楽しそうに歩く親子の姿があった。

 「母様。父様たちがこの市場を作ったの?」

 両親の間に手を繋がれた娘が母に尋ねた。

 「うーん。少しだけな。」

 照れくさそうに、母より先に父が答えた。そう言い終えると父親は都の方角を向き、そっと手を合わせた。娘も小さな手を合わせて、父の真似をした。

 この年の初夏。光明皇后が薨去した。60歳だった。慎ましく豪華さを好まないお人柄らしく、国葬ではあるが、規模は縮小され、質素な感の中で葬儀は執り行われた。

 広嗣が最後に目を通した一通の文には、「光明子」と差出人名が記されてあったが、私的な文として処理され、今では誰も知る由もない・・。

 あおによしの風は今日も変わらず吹いている。(おわり)